誰もが耳にしたことのある軽快なポップスのメロディーと、チャーミングな見た目と言動で愛された作曲家の小林亜星さん(享年88)。今年5月に惜しまれつつ88年の生涯を閉じたが、没後半年が過ぎ、完璧に備えたはずの「終活」をめぐって火種がくすぶっていた。都内の閑静な住宅街にある4階建て。爽やかなライトグリーンの外壁に、純白の窓枠が印象的な洋館風のその豪邸は、つい最近、相続の手続きが終わったばかりだ。以前の持ち主は、今年5月にこの世を去った小林さん。夫婦の共有名義だった自宅の土地と建物は、現在は妻・A子さんの所有となっている。「最近になって、亜星さんの遺言書にしたがって相続が終わったそうです。ふっくらとした体形と『寺内貫太郎』のイメージもあって、かなり豪快なタイプに見えるかもしれませんが、亜星さんは時間や数字にすごく細かい。遅刻とかにはとても厳しくて、お金の管理なども丁寧にしていました。業界内でも、お金のトラブルとは無縁でした」(音楽関係者)。亜星さんは、自分が亡くなった後のことを考え、しっかりと遺言書をしたためていた。「亜星さんの親族によれば、遺言の内容は、預貯金はもちろん、自宅や別荘といった不動産などの一切をA子さんに渡すというものだったそうです。10月中旬までに『検認』が行われ、滞りなく相続も終わったと聞いています」(前出・音楽関係者)。
アディーレ法律事務所の長井健一弁護士が解説する。「検認とは、遺産を相続する権利をもつ相続人に対し、遺言書の存在やその内容を知らせるとともに、検認の日現在の遺言書の内容や形状、日付、署名などの状態を明確にし、偽造や変造を防止するための手続きです。一方、検認は家庭裁判所に申請して行われるものですが、遺言の中身が法的に有効か無効かを判断する手続きではありません」。自宅など、亡くなった人の手元で保管されていた遺言書を発見した人が、勝手に内容を書き換えたり、破棄したりするトラブルを防ぐために行われるもので、検認を受けずに勝手に遺言書を開封すると「5万円以下の過料」というペナルティーが科されることもある。「検認日には、相続人らの立会いのもと、家庭裁判所で裁判官が遺言書を開封し内容などを調査します。調査終了後、『検認済証明書』が作成され、遺言書原本とともに返却されます。これによって、初めて遺産を相続できるようになります」(前出・長井氏)。時間をかけて几帳面に遺言書を準備していた亜星さん。検認が済んだことで、彼の遺産相続は、世にいう“争続”もなく、無事に終了──とはならなかった。
トラブルを招く「著作権の相談」
「亜星さんが残した遺言書の内容に納得していない親族がいるようで、奥さまがどうしたものかと頭を悩ませているんです……」(テレビ局関係者)。その親族とは、亜星さんの次男・小林朝夫氏(60才)。亜星さんの離婚した妻との間にできた子供で、A子さんは継母にあたる。「A子さんが財産の一切を受け継ぐことに対して、腑に落ちない思いがあるようです。一部では4億円とも報じられた遺産が、血を引いた自分に残されていないことに悲しさを感じると同時に、遺言書が“亜星さんがA子さんによって無理矢理書かされたものなんじゃないか?”と疑ってもいるようです」(芸能関係者)。朝夫氏は、自身が運営する有料ブログでも遺言書の内容への不満を吐露。トラブルは関係者の間で広く知られる事態になっているという。
亜星さんは過去にインタビューで「年収6000万円」と明かしていたことがある。遺産は莫大だと思われるが、朝夫氏の複雑な思いを増幅させるのは、亜星さんがたくさんの「誰もが耳にしたフレーズ」を世に送り出した作曲家であったことだ。「幼少の朝夫さんを隣に座らせて作り出した思い出の曲の著作権なども、すべてA子さんに相続させるという内容だったと朝夫さんは主張しています。その点にも強く不満を感じているみたいです」(前出・芸能関係者)。
1932年生まれの亜星さんは、慶應義塾大学を卒業後、就職した一般企業を数年で退職し1961年に作曲家デビューを果たした。レナウンのCM曲『ワンサカ娘』をきっかけに人気作曲家となり、その後は、『日立の樹』やサントリーの『人間みな兄弟~夜がくる』などお茶の間で親しまれたCMソングを担当した。また、『狼少年ケン』を皮切りに、『魔法使いサリー』『ひみつのアッコちゃん』『科学忍者隊ガッチャマン』などアニメの主題歌も数多く作曲した。1972年に『ピンポンパン体操』が200万枚を超えるヒットを記録すると、1976年には都はるみ(73才)が歌った『北の宿から』で日本レコード大賞を獲得するなど、手掛けた楽曲は実に6000曲に及ぶ。俳優としても活躍し、1974年にスタートした俳優デビュー作『寺内貫太郎一家』(TBS系)では昭和の頑固親父を熱演し人気を博した。
プライベートでは、大学卒業直後に前妻と結婚し、その後2男に恵まれるが、10年間に及ぶ別居の末1982年に離婚。直後にA子さんと再婚、以降40年近く夫婦ふたりで生活を送ってきた。「もともと、A子さんは映画関係の会社に勤めていました。その後音楽制作会社を経て、女性コーラスグループのマネジャーに。亜星さんとはその頃仕事を通じて知り合ったそうです。業界の文化にも精通していただけに、亜星さんは公私ともにA子さんに頼りっきりでした。だからこそ、自分の死後、作曲した音楽の権利もA子さんに任せたいと思ったのかもしれません」(前出・音楽関係者)。
亜星さんの遺言書の内容は、前述したように音楽に関する著作権もすべてA子さんに相続させるというものだったようだ。「音楽はもちろん、絵画や写真、創作物を作り出した人に認められる著作権は、相続の対象になる財産です。遺言書に記載があれば、当然その内容に沿って相続が行われることになります。ですが、著作権は相続以降もお金を生む可能性があります。現金や不動産と異なり、金銭評価の方法や、その時点の価値をとるか、予想収入も分けるのかといった点を考慮しなければならないため、トラブルにつながりやすい実態があります」(前出・長井氏)。
子供たちには充分尽くした
亜星さんがそんな遺言を残したのには、前妻との離婚のいきさつも関係しているのかもしれない。「長く別居しての離婚でしたが、前の奥さんと離婚したときに、自宅や別荘、経営を任せていたスナックなど、預貯金も合わせて手持ちの財産はほぼすべて渡したと言っていました。古いベンツ1台だけ残して身ぐるみすべて渡しての離婚だったので、“パンツとベンツ離婚だよ”とよく笑い話にしていました。そのうえ、生活費や子供2人の養育費など合わせて月60万円を何年にもわたって払い続けた。離婚直後は疎遠になった時期もあったようですが、お金にきっちりしていた亜星さんだけに、離婚しても“無関係”とはなれなかったんでしょう」(別の音楽関係者)。次男の朝夫氏には、さらなる“手厚い支援”もしていた。朝夫氏は1981年に、戦隊シリーズの『太陽戦隊サンバルカン』(テレビ朝日系)にヒーロー役で出演するなど、一時期は俳優として活動。その後は学習塾の講師・経営者に転身し、教育関連の著書も多数出版。現在は地震予知の研究者としてブログでの発信を続けている。一方、過去には警察沙汰を起こしていた。「そのときの弁護士費用や罰金、被害者への賠償金を立て替えたのは亜星さんだったそうです。亜星さんは、“もういい大人だから”と、表立って文句や愚痴を言ったりすることはありませんでしたが、思うところはあったようです。それまでの多額の金銭支援もあったし、“子供たちにはもう充分尽くした”という思いもあったかもしれません。前妻と別居後、自分を支えてくれたA子さんへの感謝の気持ちもあったはず。だから遺言ではすべてをA子さんに渡すことにしたんじゃないでしょうか」(前出・別の音楽関係者)。
遺言書の効力は大きい。だが、亜星さんのケースのように「すべてをこの人に」という遺言の場合、ほかの相続人に認められる権利もある。「遺言があっても、法定相続人が最低限の遺産を受け取れるようにする『遺留分』という制度があります。遺言書の内容が、ある相続人に遺産を相続させないようなものだったとしても、遺留分侵害請求をすることで、その相続人は最終的に法定相続分の2分の1を得ることができます」(前出・長井氏)。今回のケースの場合、遺留分は相続財産の2分の1となる。そのうち、妻であるA子さんに2分の1、子供に2分の1が認められることになり、その“子供の分”を長男と朝夫氏の2人で分けることになるので、朝夫氏には全相続財産の8分の1が認められることになる。
すべて弁護士に任せています
前述した遺言の内容や遺産の分け方は、朝夫氏の言い分によるところが大きい。実際のところはどうだったのか。『女性セブン』は、亜星さんから相続した自宅で暮らすA子さんを訪ねた。前出の音楽関係者によると、A子さんと朝夫氏は血のつながりはないながらも「亜星さんの晩年は、関係も良好だった」と話す。ところが、遺言書の内容と朝夫氏の不満についてA子さんに話題を向けると、「おつきあいがないので……。すべて弁護士さんに任せていますし、こちらには何も言ってきていません」と言葉少なだった。一方、朝夫氏にもSNSなどを通して取材を試みたが、締切までに返答はなかった。かつて、還暦を過ぎた亜星さんは『妻への遺言 夫への遺言』と題した雑誌のインタビューで、A子さんに対して次のように話していた。《何歳まで生きられるかわからないけど、それまではせいぜい有り金は2人で使い切ってしまおうよ》(『週刊宝石』1998年3月12日号)。その言葉とは裏腹に、亡き後のことまで気を回して財産を残した亜星さんの気持ちはいかばかりか。